春病

 翳る部屋は鬱蒼とした蟲を蓄えていた。あの影の部分に自分の右心房に戻る血を重ねたり。キラキラした魔法を唱えたらみんな幸せになれたかなぁ。幸せという価値の違いに気付けない、僕はまだ哲学足らず。
 ハルジオンが咲く。柔らかで粉っぽい、食べたら苦い。春は苦いんだよってあの子は笑いながら泣きながら言うから僕はあの日ちょうど一昨年のあの日から春が来るたびに病。
 暖かいとも寒いともいえない南風の中の何だか漂う人間臭さをいとも簡単に春と嗅ぎ分けてしまった僕の鼻は、あの日、硝酸ストリキニーネの冷たい殺意で死んだ犬より何億倍退化してしまったかは解らないけど、あの臭いを忘れていないのは人間の本能であって、僕は嬉しくて堪らなかった。
 闇を貫く重機のようなあの黒い犬は春になる前に死んでった。あれだ、あの方が詠ったようにきっと、ありあけの月のした藪と蜘蛛の巣にうずもれて死んでったんだろ。冬は寒かろう、もう今はその血潮を温床に白の蕾を湛えてますか?僕より強く死んでいますか?僕より綺麗に生きていますか?

 揃う二十四本の肋骨の内側で、心臓とやらがドクンと上げた。その声はきっと喚起の声、春への賛美と憧れと熱望と隠蔽と後ろめたさ。桜色の苦い空気が口に広がった瞬間、僕は情けなくなる。愛しているよも言えずに春が来る春が来る春が来る来る狂う狂おしいほど、嗚呼、今僕の何億かの皮膚細胞の膜をノックした。
 僕は春に侵食される。僕を食い尽くし、潜み、緩やかに、微笑みかけて、包む。スプリングヴァイァラス、蝕んで蝕んでむしゃむしゃ蟲も右心房も低気圧も硝酸ストリキニーネ悪魔主義者も二十四本の肋骨もハルジオンも。

みんな天国へ行けますか?
こんな春の陽気の中で。