月に夢路

 溶けそうなぬるま湯の毒素の夜、流れ雲が上空の突風を具体的に示している。望から朔へ移ろう途中の月がはっきりと、歪んだ薬指から撥ねた髪の影までを地面に写し取り、僕がそこに存在する事を定義する。太陽の目の届かない影に夥しい死がある!今は夜、死の国で君を呼びそうな、くらい。アスファルトは火照った売女の皮膚のような温度で、裸足のままで飛び出した僕の足に細かい砂や砂利や埃がそれをくれよ、あれをくれよと憑いて離れない。
 夏らしくない夏だ、と哂っていた。今年はずっと梅雨を引き摺る仕草を見せている。でもどうせ夏は来る、季節を間違えずに八月の亡霊は無い足を粘つかせて、僕は、僕は剥れてしまうもの、奪ってしまった言い訳、恋心、あんたの死、全部やってしまって、残ったものは蛋白質だけだ、と、嘆いたが、恐れはなかった。
 「そこに存在している事」がどれだけの領地を占めているのか知っているから。
 (つきはおそろしく遠いな、手をのばしたら届きそうなのに、畜生)
 くすね盗りたい衝動とそれができない葛藤と、僕に潜む純粋な傷跡の所為で、為に、僕は走った。汽水の終わりへ、スピードを上げて、潮の匂いと陸風のなかで、僕は走った。足の裏、踵の骨がコンクリートにぶつかるたび、鈍い痛みと、重く響く骨のなる音ドクン。性的な快感に似ている脳の中で分泌されている追撃した傷跡たちが、耳や鼻、涙腺、舌先、肺胞の一粒一粒から滲み出て僕に逆らって後ろに飛んでいく!振り返らない、振り返らないんだ。それは終わっていく出来事、成仏していく事、月乃光の中で荼毘に伏すんだ。弱い熱を帯びて燃え尽きろ。傷跡を埋めるように新しい恋を隙間に詰めるから。踵がドクンと続けて二回終幕の鐘を打って、僕は死んだ。心臓の拍だけ一定で、その他全ての行為が不安定な揺らぎの中にいる。
 僕は死んだ。仰け反り、倒れて、そのまま動かなくなった。左足の中指の付け根から、地面にかけて一本の赤い線がたらりと落ちる。乱れた呼吸を正すように横隔膜にAを与えて、そしてそのままコンクリートに僕の影がキスをする。夢路の上に死んだ身体を横たえて、朝はまだかと月に問う。月は笑ってらぁ。傷跡たちにさよならしたら空っぽだ、ああ、ああ、暑いなぁ。