乞い患い

 繋ぎそびれた手はあてのない旅に出る前にポケットにしまって、聞いていなかった話の続きを頭の中で作って笑う。どうしたの?なんて言われる前に糸口を爪で引っ掻いて剥いだ。患っている。百も承知です。やはり曇天の葛西には飼い馴らされた魚が無言の影を落とし、観覧車は音を立てて廻っている。穏やかに肌寒い夜は結晶化し始めていて、存続する僕の受話器、対岸の既視感、臨んだ海に浮かぶ煌めいたままの工業地帯。
 そう言ってやってくるしばらくの沈黙は僕の脳内や春の海の空気を掻き混ぜるには充分で、愚かな乞いの魔物がちらつかせるナイフとフォーク、記憶する器官を持たないくらげになって昨日もすっかり忘れてしまえるなら、大洋に抱く不安な気持ちもなかっただろうに、笑えるぜ。大層貪婪なうつぼに君が満ちて止みません、猶予う牙の配列に君がかかってしまったとしたら、その罠のいずれかを壓し折ってしまえばいい。繋げなかった掌に淫らにも汗が滲んで、感情線を汚します。無色透明なアクリルの向こう側、豊かな潮に溺れながらも渇いた体がひりひり、する。

夢を見た

 金輪際、真理という不可思議に触れるのは止そう。化石のように白く凝り固まり、笑わなくなった月を嗤う。雨に怯えた水棲生物、また次の季節に憧れる桜の俤、岐路に立たされた生命線、いま誰を選ぼうか迷い続けたまま、アリバイの証人は僕のために決死の嘘をついていた!彩り尽くした我が身を全て春のせいにして、鈍重な馨りにヤられた僕は二十四分の一の嗅盲です。
 期待はしてない、止めたのだから、真理という悲しい結果を待つのは。乱反射する雲間に淡水魚の影が膨らんで、眠ってしまったあの娘の理論武装、彼が死んだ港から聞こえた汽笛、三時間前に吐精しながら契った永遠という口約束に耳を痛め、神様が創ったであろう美しい君の腐乱した肉を一齧りしてぽつり、…不味い。

十七歳と九ヶ月

 まるで愚図のようだと誰かが笑いながら罵るので、僕の懐に携えていた遺書はチョコレートで汚れてしまったよ。教室のカーテンが薄ら笑いで揺れている、陽光の中で僕は本当の意味での孤独を覚う。空しく撞かれた鐘の音を合図に散々になった少女等の暴れた髪に欲情し、信じて待っていたものに裏切られながら、僕は明日を選び続けていた。黒い服が重たくなっていく春の温んだ湿度に僕の器官は海を湛え、つまらないんだ、選んだ明日は、ならば一思いにさようなら!!三月の線路はそれでも冷たく、夕暮れの江戸川駅が美し過ぎて泣けました。さびしくなって帰る街並には夕餉の醤油や葱の匂いが漂い、君の思いを綴った手紙のような三十一文字を饑い夢の砂浜にぽつねんと存在するポストへと投函し、僕は黙って溢れた潮を拭います。
 帰る?いいや、僕はしばらく歩いていくよ。

ハッピーバースデー

 ヒーローはあの娘を救うためにたくさんの人を殺してハッピーエンディング、思想の中で死んでいった彼らは最期まで幸せでした?月蝕の夜に僕はやさしい悪魔と膚を寄せ合って、フロイトはこんな僕に何を話すだろう、ユングは僕を罵るだろうか。日を追う毎に美化される思い出、眠りながら聞き耳立てた未来派宣言、僕の猥雑な重機で轢き殺された君は誠に不埒な黄色い声をあげて狂ったように慶んだ!僕がここにいなくても、電車はすべからく次の駅まで揺れるのだから、さようならの原理を一から十まで教えて欲しい。
 名前を棄てた神様の喫んだ煙の重さを量り、生活につんざかれたその体は正しさの鋳型に填まっていく。空っぽの思いを束ねて腕の真似事をして見せるけど散らばる砂すら寄せられず、訳もなく噤んだ唇の上で言いそびれた言葉が大渋滞。そんな場面に出くわしても泣きはしないさ、だってそうだろう、僕の涙こそ本当に無意味なのだから。世界よ、どうか終わらないで。

Re:

 枯れ切ったその眼窩を濡らすのは今日の雨だろうか、飢えたこの肋骨を登るのは明日の半月だろうか。僕は魔物を飼い馴らし、君に喰らい付いて離れない。「もう一度…」と伸べた手の行方、目の交点には僕ではなくて深宇宙。夜鷹は山羊の歌うたい、僕は一抱えのヴィオールを以ってピツィカートで応ずる魚!愛する者が張る羂、目に見えない罸、君の血を冒す客人が遺した感染症、僕の血で犯す天鵞絨の手を模した異嗜症。世界は寒々しい氷に隠されて嘘も本当も全て同じさ。
 対を成す事象は君であり僕であり、紛うことなき真実で途方もない虚構だった!誰かのために湛えた涙が君の焦点が捕う星になるのであれば、魔物の背には羽根が生え、夜明けと共に高く高く昇ろうぞ。恥じらうな、逖い空間で君を待とう、最新鋭の魔術はお嫌いですか?

夜船と北窓

 十文字のうそが取り返しのつかないことになって全てががらがらと崩れ去る夜に僕は真実を段ボールにしまっていた。遥かに大きな規模の月の海、砂糖菓子、天体観測、白妙の雪を望み迎撃する望遠鏡。新しく手に入れた力はやがて革命を起こすかもしれないんだ、五分間のまやかしにはうるさい沈黙を飾ろう。不味い土、埋める骨、蒔いた種から育つ不穏な花の香を抱いて、見やる空から大粒の淡い花模様。
 確かにそこに或る君の指に触れようと、不確かな思いはそれを決めて、悴んだって構いやしないさ。一ミリでも離れているなら意味などない、寄り添ったって遣る瀬ない。鋭利な感情、毀れる刃、背後で揺れる射ゆ獣の心を悼めた僕は月を知らず、そんな君は夜に夢中。

無題

 群青色の刺繍糸で東の空と海の遠さを縫い付けて、砕けた玻璃の星が何も言わず嘲謔、僕はただぼんやり眼を綴じる。幼さは悪びれもなく君を傷つけた、僕は幾年も経ってそれに気付いた。今更泣いたって遅いんだぜ、再び見開いた網膜に影を無くした僕の足、窓の外には白々しい半月、風強し、近付いては遠退く待ち侘びた春。
 世界は終わる!それが存在するということなのです。終わらせようと思えばすぐ済むことなのにそれを拒み続けているのは、君が明日を選んでいるんだ。ならば麻のロープではなく体温を選んで欲しい、今更手を伸べる軽率な僕の温度を。献身的な殺人、盲信的な愛撫、治癒と負傷の堂々巡り、固く閉じた群青の夕とそれを解く金色の朝、何をそんなに怯えている、その掌が見た世界は無意味な環状線ばかりかい?与えられた氏名と使命を全うする美しい生物ではないか、君は!